amanga /あいきじゅん
奄美群島の日本復帰

(挿絵を並べて終戦から日本復帰までの流れを表しました)
2013年に奄美群島日本復帰60周年の記念に東京奄美会が発行したものです。
イラストを描くにあたり初めておがみ山に登って泉芳朗氏と谷村唯一郎氏の胸像を見てきました。頂から名瀬の街を見下ろし、その光景を背表紙に描きました。
後に電話で右田昭進さんから直に「良い仕事をしましたね」とお褒めの言葉をいただき嬉しかったです。

奄美群島の日本復帰について学ぶ主人公のカナちゃん

昭和20年8月/広島、長崎への相次ぐ原爆投下により日本は無条件降伏を受け入れました。

昭和21年2月/北緯30度以南の南西諸島(奄美・沖縄諸島)は、日本本土から切り離されて米軍の統治下に置かれました。

米軍統治となった奄美は日本本土との交通が一切禁じられました。

昭和21年6月/戦前から東京奄美会の会長を務めていた泉二新熊(もとじしんぐま)が公職追放により辞任し、代わりに奥山八郎が会長に就任しました。 (公職追放/日本の軍国主義の一掃のためとして占領軍の判断で一定の政治家、経済人などが追放された。泉二は法曹界の重鎮で枢密院顧問であった)

昭和21年/「東京奄美連盟」を始め全国各地の島の出身者が救済団体を次々に結成して、同郷の戦災者や引揚者の援護に務めました。

中には、毛布や炊事道具等の配給品を困窮者へ回さずにヤミ市へ横流しして金儲けをする者も…

昭和21年12月/「奄美連合全国総本部」が結成されて、その1年後総本部委員長に昇曙夢(のぼりしょむ)が、東京本部委員長に谷村唯一郎が選任されました。

昭和24年〜25年/奄美出身の国会議員が米軍の統治下に置かれた奄美諸島の帰属を要求し、その後の復帰運動の契機となりました。
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ホライゾン38号

奄美の情報誌HORIZON(VOL.38)にて日本復帰60周年記念の特集記事「米軍政下の奄美」の挿絵を描きました。

終戦後に奄美が本土と切り離されたため島で商売を再開することを諦めた本土商人たちは土地建物を売り払って島を去りました。

仕事のため、勉学のため、家族と会うためと様々な事情を抱えて米軍政府が引いた国境線を多くの人々が死をも覚悟しつつ越えていきました。

本土と切り離されて極端な物資不足と食糧難に陥りながらも教育の火を絶やさぬようにと国民学校が再開されました。芋の弁当はまだマシで何も持参できない子や、学校にさえ通えぬ子もいました。

戦争未亡人や母子世帯、戦争孤児たちにはさらに厳しい現実がありました。育ち盛りなのに十分な栄養を得られずに栄養失調や発育不良に陥る子も多くいました。

米軍政下の中で自家用酒の製造は認められていて各地で盛んに行われていました。しかし、自家用酒が売買されることに危機感を抱いた酒造業者たちの要望を受けてやがて一般人による酒の製造は禁止され酒税法が施行されました。この時期税務署は密造酒や売買の取り締まりを行いました。

明治34年の大島紬同業組合発足時の商標には日の丸が描かれていましたが、米軍統治下の奄美では日の丸の使用が禁じられたためその旗印デザインは使えませんでした。その間に鹿児島へ疎開していた業者がそこで大島紬の生産を始めて日の丸の商標をそのまま使い本場大島紬として国内に流通させていました。 現在使用されている地球印の商標は復帰後の昭和29年に意匠登録されたものです。